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  • 公開日時 : 2017/01/20 00:00
  • 更新日時 : 2021/10/07 16:41
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【社会】堺の鉄砲鍛冶について

なぜ,堺で鉄砲が盛んに作られるようになったのでしょうか? 
また,買っていたのはだれですか?
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回答

堺で鉄砲作りが盛んになった理由としては,
・もともと堺では,平安時代の末期から鋳物(いもの)事業を行っていたこと
・貿易港として栄えて有力な商人がおり,その中の一人が種子島に行き,鉄砲をつくる技術を覚えて堺に伝えたこと
・織田信長が堺を掌握したこと
などが挙げられます。
 
堺は,平安時代の末期から,すでに鋳物事業(鉄などの金属を高温で溶かし,型に流し込んで器などを作ること)が盛んな町でした。
河内鋳物師(かわちいもじ)と呼ばれる集団が堺に住んでいて,鉄砲を作る鍛冶(かじ)技術の下地があったのです。
 
また,古くから重要な港で,勘合貿易のころも大変栄えました。有力な商人たちは自治を行い,貿易商人も育ちやすい環境だったのです。
1543年,種子島(たねがしま)に鉄砲が伝えられました。
堺の有力な貿易商人の橘屋又三郎(たちばなやまたさぶろう)は種子島に行き,2年近く種子島に滞在して,鉄砲を作る技術を習得して堺に戻りました。
こうして堺では,それまでの鋳物の技術をいかして,さかんに鉄砲がつくられるようなったのです。
 
時はちょうど戦国の世ですから,鉄砲は戦国大名たちが買っていきました。戦国大名たちだけでなく,石山本願寺も堺の鉄砲を使っていたようです。
1569年に織田信長が堺を支配し,堺の鉄砲鍛冶はますます盛んになりました。
1575年の長篠(ながしの)の戦いでは,武田軍の騎馬隊を多数の鉄砲で破っていますから,堺の鉄砲も大量に使われたと思われます。
 
なお,近畿では,ほかに近江の国友(くにとも),紀伊の根来(ねごろ)の鉄砲鍛冶が有名です。

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