元は,日本を含む東アジア全体を完全に支配しようとしていたからです。
元(モンゴル人の国)の前身のモンゴル帝国は,東ヨーロッパからアジアまで支配する一大帝国となりました。
さらに東アジア地域を完全に支配しようと,まだ手をつけていない日本に国書(手紙)を送ってきました。
しかし支配下におかれかねないような内容だったため,鎌倉(かまくら)幕府は国書を無視し続け,(のちに元となった)フビライ・ハンの怒りをかいます。
1度目の[文永の役(1274年)]は,元軍の力を見せつける程度で終わりました。
その後,7年間何もなかったわけではないのです。
元は別の国を征服していました(中国南部の[南宋(なんそう)]という国を支配)。
日本側もその間,元の再来を予想し,防備を進めました。
2度目の[弘安の役(1281年)]は,元も大軍で攻めてきました。
しかし,台風がきたという幸運もあって,日本は勝つことができました。
その後,元の支配を受けた国が反乱を起こし,元は鎮圧に手間どられました。
元寇(げんこう)の兵士は主に支配下におかれた朝鮮半島の[高麗(こうらい)]や[南宋]からかりだされていたので,その兵士たちの国が反乱を起こしたおかげで,日本は3度目の元寇を受けずに済んだともいえます。