豊臣秀吉の朝鮮侵略によっていったん途絶えた日本と朝鮮の国交は,徳川家康が再開を強く望んで実現したといわれています。
徳川家康は,幕藩体制を確立するにあたって諸外国との関係を安定させることを重要視しました。このため,近隣国である朝鮮との対立を避けたいとの考えから,朝鮮との国交回復を強く望みました。
これに加えて,朝鮮半島に近い対馬(つしま)藩が朝鮮との貿易を望んでいたことや,朝鮮側も先の侵略で捕虜(ほりょ)となって日本に連れていかれた人々の奪還を望んでいたこと,日本から再び攻めてこられるのを恐れたことなどが重なり,対馬藩を交渉役として,捕虜となった人々を朝鮮に帰すことなどを条件に,朝鮮との国交が再開されました。
朝鮮から日本を訪れる朝鮮通信使は1607年に再開され,将軍の代がわりごとに日本を訪れ,その回数は12回にのぼりました。