明を征服することをくわだてた豊臣秀吉は,朝鮮に対して,日本に服従し,日本軍を明まで案内し,ともに明と戦うよう申し入れました。
しかし,朝鮮はこれを拒否しました。
このため,1592年に秀吉は朝鮮に出兵しました(文禄の役)。日本軍は漢城(ハンソン:現在のソウル)を占領し,さらに進軍しましたが,朝鮮の水軍と明の援軍による反撃にあったため,休戦して朝鮮から引きあげました。
その後,明と講和を結ぼうとしましたがまとまらなかったため,秀吉は1597年にふたたび大軍を朝鮮に送りました(慶長の役)。しかしこのときも,朝鮮と明の軍が激しく抵抗し,日本軍は苦戦を強いられました。
このような状況の中で,1598年に秀吉が病死したため,日本軍は引きあげました。
この2度にわたる戦いで,朝鮮は大きな被害を受けました。日本にとっても多くの戦費と兵力を費やし,大名や民衆の負担も大きく,豊臣政権が没落する原因のひとつとなりました。